書籍情報|坂の上の雲
「坂の上の雲」のあらすじ(楽天ブックス)
「坂の上の雲」のキーワード
日露戦争
203高地
正岡子規
感想/書評|戦争とは何か。
松山藩出身の3人の登場人物を題材に、明治維新後、日露戦争までの日本を描く小説。
登場人物
登場人物の1人は正岡子規。俳句や短歌の革新運動を進め写生論を提唱した人物。
その正岡子規の親友であった秋山真之。日露戦争において、東郷平八郎のもとで海軍参謀としてバルチック艦隊を打ち破った作戦を立案した人物。
もう1人が、この秋山真之の兄、秋山好古。日清戦争及び日露戦争において、近代日本最初の騎兵隊を創設し、指揮した人物。作者による後書きでは、このように評されている。
ただ生活費と授業料が一文もいらないというだけの理由で軍人の学校に入り、フランスから騎兵戦術を導入し、日本の騎兵をつくりあげ、とうてい勝ち目はないといわれたコサック騎兵集団とたたかい、かろうじて潰滅をまぬがれ、勝利の線上で戦いをもちこたえた。
戦争とは何か
いまの日本人にとって、「戦争」という言葉には、負のイメージがある。
太平洋戦争における敗戦とその後の教育とが、日本人をして、このような負のイメージを抱かせているきらいがある。
しかし、ロシアとウクライナとの間の戦争が勃発して継続しているような状況にある現在、「戦争」に対して負のイメージをもつだけで、その真の姿を確認しようとしないのは、間違っているのかもしれない。
本書は、日露戦争を、作者の綿密な調査に基づく事実を丹念に記載する形で描き上げている。このような本書を読むことは、事実ベースで戦争を捉えるのに最適かもしれない。
そもそも明治維新後間もない日本政府が、なぜ日露戦争の開始に踏み切らざるを得なかったのか。
日露戦争において、陸軍及び海軍は、どのような作戦を立て、どのように実行したのか。
日露戦争は日本の勝利といえるのか。また仮に日本の勝利といえる場合、ロシアは何故敗北したのか。
作者は、これらの問いに対し、史実をもとに回答しようと努めている。
そして、その回答は、太平洋戦争と日露戦争の違いを浮かび上がらせる。
日本政府の戦争回避論
日本政府の要人のほとんどが戦争回避論者であった。なかでも元勲の伊藤博文が非戦のための尖鋭的存在だったことは、伊藤という人物がいかに愛国的ファナティシズムにまどわされず、いかに政治家として現実主義的思考をくるわさずに生きえたかという点であらためて評価を重くしてやってもいい。
作者によれば、日本政府は日露戦争を可能な限りで回避しようとしていた。
むしろ民衆や学者が開戦論を説いた。
帝大七博士といわれるひとびとがそれで、七人が一小党をなして政府にはたらきかけた。
「きょうは馬鹿七人がきた。」
と、自宅の応接室から出てきて、ぼんやりした顔でつぶやいたのは、この時期の参謀総長大山巌であった。日本の実力からみてできもせぬ対露戦を、何人かの論客がせっつきにきたのである。
戦争の見通し
しかし、ロシア側の東アジアへの侵攻を受け、日本は日露戦争を開始せざるを得ない状況に陥る。
自国の状況を知り、勝ち目のないことを知っていた日本政府は、次のような作戦を立てる。
ロシアという大男の初動動作の鈍重さを利用して、立ちあがりとともに二つ三つなぐりつけて勝利のかたちだけを見せ、大男が本格的な反応を示しはじめる前にアメリカというレフリーにたのみ、あいだへ割って入ってもらって止戦にもちこむというものであった。
要するに、勝利はできないものの、勝利の外観を作出しようとした。
あくまでも勝利の外観を作出し、すみやかに日本有利な条約を締結した上で、可能な限り早期に戦争を終わらせようとしていた。
児玉源太郎の言葉がある。
児玉のことばはほぼ正確につたわっている。
「戦ヲハジメタ者ニハ、戦争ヲヤメル技倆ガナクテハナラヌ。コノビンボウ国ガ、コレ以上戦争ヲツヅケテ何ニナルカ」
日本の勝因とロシアの敗因①
結果として、日本は勝利の外観を作出することができた。ポーツマス条約を締結し、一定の利益を得た。
この原因は、どこに求められるだろうか。
本書の中には、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの次の言葉がある。
「専制国家はほろびる」
というただ一つの理由をもって、この戦争の勝敗の予想において日本の勝利のほうに賭けたのは、アメリカ合衆国の大統領セオドア・ルーズヴェルトであった。
作者も、この意見に概ね賛成しているようである。
また、作者は、官僚制を専制国家と結びつけ、官僚制こそが勝敗を分けた要因であるとしているように読める。
作者は次のように考えているようである。
日露戦争当時のロシアは、官僚制が高度に発達していた。官僚制のもとでは、自国の勝利よりも、自国内における自己の地位の維持・昇進こそが重要であった。そのため、別の将軍が考えた作戦については失敗することを願うようなこともあった。これがロシアの敗因となった。
日露戦争後の日本においても、日本軍(特に陸軍)が官僚主義化し、それが太平洋戦争という誰も責任を負おうとしない戦争の要因になった。日露戦争中にも、この官僚主義化の影響は現れはじめており、日本軍を無闇に減らす原因となっていた。
日本の勝因とロシアの敗因②
本書を読むと、日本の勝因およびロシアの敗因として、外交戦略も挙げられている。
日本は、当時の海軍大国である英国と日英同盟を締結した。このことが日本海軍の勝利に繋がったといえる。
また、この作品を読んではじめて知ったが、日本は明石元二郎をしてロシア革命を含めた反ロシア活動を支援させていた。
この明石元二郎の活躍もあって、日露戦争中、第一次ロシア革命が起きる。ロシアは、この革命に対する対処の必要性もあり、ポーツマス条約締結を余儀なくされる。
(明石の活躍は第6巻に描かれれている。)
これに対し、ロシアはフランスとドイツと手を組むが、十分な連携をおこなわない。
ロシアのバルチック艦隊は、日本までの移動中、同盟国であるフランスの港に入ることもできなかった。洋上でドイツから石炭の提供を受けていた。
さらにロシアは、ユダヤ人を迫害していた。このこともロシアの敗因となった。
全米ユダヤ人協会会長であったヤコブ・シフは日露戦争のために日本が発行した外債について、その多くを引き受けた。
「われわれユダヤ人は、ロシア帝政のなくなることをつねに祈っている。時たまたま、極東の日本国が、ロシアに対して戦いをはじめた。もしこの戦争で日本がロシアに勝ってくれれば、ロシアにきっと革命がおこるにちがいない。革命は帝政をほうむるであろう。私はそれを願うがゆえに、あるいは利にあわぬかもしれぬ日本への援助を、いまこのようにしておこなっているのである。」
日本の勝因とロシアの敗因③
優れた兵器の開発及び利用。
これは日本の勝因でもあり、203高地での戦いにおいてはロシアの勝因でもある。
日本軍に関しては、下瀬火薬と伊集院信管がそれである。
明治維新後間もない日本が独自に開発した下瀬火薬の威力は凄まじいものであった。これがなければ、日本海軍の勝利は怪しかったかもしれない。
203高地では、コンクリートを使用した要塞化が日本軍を苦しめた。
日本軍は要塞化された高地を攻める技術を十分に有しておらず、(後に児玉源太郎が戦術を大きく変更させるまで)愚かにも、ただ無闇に人員をして突撃させ、兵を減らすのみであった。
「日本軍が自分で作った突撃路へ大量にやってくる。ロシア軍としては機関銃の照準をそこにあわせて、ただ引き金をひきつづけていれば良い。」
と、コンドラチェンコは、この地区指揮者であるトレチャコフ大佐にいった。
最後に
(太平洋戦争以外の)国家間戦争を題材にする小説を、はじめて読んだかもしれない。
太平洋戦争での陸軍の態度は、そもそも戦争をはじめたところも含め、(本書でも触れられるように)愚かとしか言いようがない。
しかし、この日露戦争における日本政府の思考は、おおむね理性に基づく合理的なものであると感じた。もちろん、当時の日本政府の要人の多くが考えていたように、避けられるのであれば避けるべき戦争ではあったが。
「戦争」を十把一絡げに捉え、そこから距離を置こうとだけすると、かえって太平洋戦争のような愚かな過ちを繰り返しかねないのではないか。
ただ距離をとるだけでなく、十分に近づいて、その真の姿を見ようとすることが求められるのかもしれない。
なお、この小説を読むと、とにかく児玉源太郎に対する評価が高い。本書で描かれている203高地攻略戦における児玉源太郎の指揮は見事というほかない。第5巻前半で展開されている。
次の記載は、戦争以外にも妥当しそうな記載である。
ところが児玉にいわせれば、
(専門家のいうことをきいて戦術の基礎をたてれば、とんでもないことになりがちだ)
ということであった。専門家といっても、この当時の日本の専門家は、外国知識の翻訳者にすぎず、追随者のかなしさで、意外な着想を思いつくというところまで、知識と精神のゆとりをもっていない。児玉は過去に何度も経験したが、専門家にきくと、十中八、九、
「それはできません」
という答えを受けた。かれらの思考範囲が、いかに狭いかを、児玉は痛感していた。児玉はかつて参謀本部で、
「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」
とどなったことがある。