書籍情報|コンスタンティノープルの陥落
「コンスタンティノープルの陥落」のあらすじ(楽天ブックス)
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コンスタンティヌス皇帝
ビザンチン帝国
ヴェネツィア
1453年
ゲオルギオス
感想/書評|東ローマ帝国の滅亡
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡までの数カ月を描いた物語
1453年
1453年、オスマントルコ帝国のマホメッド2世は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を攻め、東ローマ帝国を滅亡させる。
1453年といえば、日本では室町時代。応仁の乱が1467年だから、その10年ほど前の話。
当然の帰結のようだが…
上記では、コンスタンティノープルが東ローマ帝国における1つの都市であるかのように書いた。
しかし、15世紀当時、東ローマ帝国の領土は、ほぼコンスタンティノープルに限定されていた。
周りはオスマントルコ帝国に囲まれており、正直、攻め込まれたら勝てるはずがない。
1453年の4月に始まった戦争は、わずか1か月後、オスマントルコ帝国の勝利で幕を閉じる。
当然の帰結のような勝敗だが、本書は、この戦いに参加したヴェネツィア人やジェノヴァ人、ビザンチン人、トルコ人の複数の人物を取り上げることで、物語に深みを与えている。
合理主義と非合理主義
本書では、ビザンツ帝国が「非合理主義者の国」として扱われている。
次の記載がある。
冷徹で合理的な思考法をわがものとすることによって、ルネサンス文明の創造者となった当時のイタリア人から見れば、十五世紀のビザンチン人は、精神上の問題である宗教と、地上の問題である政治を分離しようとしない、中世的な非合理主義の集まりであり、宗教談義にばかり熱中し、共同体を効率良く運営するに必要不可欠な積極性と協調の精神にまったく欠け、しかも迷信に動かされやすい、一言で言えばまことにだらしない民族としか映らなかったのである。
ニコロは、現実蔑視のビザンチン人の傾向がこういう時にも示されるのかと、苦笑する想いでそれ以上自説を主張しなかった。
正直、この非合理性が勝敗に直結したというものではないと思う。
しかし、政教分離が実現しない状況は、国民だけでなく、国家にとっても望ましくない状況だとは思う。
宗教には、現実から考えるのではなく、理想から考える傾向が見られる。
一つの国家を運営していく上では、現実に即した思考が必要であると思う。