【感想・評価】暇と退屈の倫理学

書籍情報|暇と退屈の倫理学

著者 國分功一郎
発行所 新潮社
楽天ブックス内評価
楽天ブックス内レビュー数

「暇と退屈の倫理学」のあらすじ(KIROKU内)

すべての人が経験するであろう『退屈』。向き合い方を誤ると主体性の喪失や第三者への危害にも繋がりうる『退屈』とどう向き合うべきか。定住革命という仮説や、環世界という概念を使用するとともに、複数の哲学者の見解を参考に、『退屈』との向き合い方を検討する…

※ このあらすじは、当サイトに投稿された感想/書評の一つです。

「暇と退屈の倫理学」のキーワード

バートランド・ラッセル

ジョン・ガルブレイス

文化産業

ウィリアム・モリス

ブレーズ・パスカル

系譜学

定住革命

浪費と消費

形而上学の根本諸概念

空虚放置

十八分の一秒

環世界間移動能力

「暇と退屈の倫理学」の著者「國分功一郎」とは?

「暇と退屈の倫理学」の著者「國分功一郎」は、Wikipediaによれば、次のような人物とされています。

※ この記載は、Wikipediaから自動取得しています。正確性については、別途ご確認ください。

感想/書評|熱中できるものを探せと言われても…

暇と退屈について哲学者が考察した本。

初めて哲学に触れるのに良い本だと思う。

退屈論の意義

この本のタイトルは暇と退屈の倫理学である。

まず筆者は、暇と退屈を考察する意義を示している。

大雑把にまとめれば、次の通り。

退屈への向き合い方を考察することは重要だ。なぜなら、退屈への適切な向き合い方を考察しなければ、人は主体的に生きていけない。また、他人に危害をもたらす可能性もあるからだ。

筆者は、文化産業による消費者主権の強奪や、ファシズムの台頭、テロリズムが、退屈論の未熟さ故に生じている可能性を指摘している。

やや強引なロジックな気もするものの、興味深い。理解できなくもない。

退屈とどう向き合うかが分からないと、文化産業の奴隷になる。それは、暇な時間を埋める手段を恣意的に提供することで対価を得ようとする。人は主体性を失い、文化産業が提供する「情報」を消費する奴隷に成り下がってしまう。見応えがあると宣伝される映画を見て、美味しいと評判のレストランに行き、ブランド品を買い込み、見せびらかす。

また、同質な今日と明日の繰り返しに耐えられず、今日と明日を区別してくれる事件を求めるようになる。敢えて苦しみを求めたり、非日常的な興奮を求めて死に興じようとしたりする。

他の哲学者の退屈論

次に筆者は、退屈論に関する複数の哲学者の見解を紹介する。

印象に残った哲学者の見解を挙げると、こんな感じ。

まず、バートランド・ラッセル。

幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

次に、マルティン・ハイデッガー。

ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよーーーこれがハイデッガーの退屈論の結論である。

当然ながら、筆者はこれらの見解に反論する。

ラッセルの見解への反論は次の言葉に現れる。

だが、やはり何かが足りない気がする。退屈している人にこう言ったところでどれほどの効果が期待できるだろう? 彼らは言うだろう。ーーー自分だって、興味をひく人や物に対してできるかぎり友好的に接したいと思っているんだ。けれど、そうした人や物がいったい何であるのか、どこにあるのか分からないのだ、と。

…めっちゃ分かる。

ハイデッガーの見解への反論は、いくつかある。

そのうち一つは、次のようなもの。

決断して進んだ先でも退屈に悩まされることって多くね?

……これも分かる。

筆者の退屈論

筆者の結論は、次の通り。

〈人間であること〉を楽しむことで〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

おそらく筆者が言いたいのは次のようなことではないか。

まず、退屈を完全には排斥はできない。退屈は日常と共にある。

次に、日常を楽しめば、退屈な気分を減らせる。それだけでなく、過去の習慣を根本的に破壊する経験と出会い、新しい習慣を構築するまでの間、退屈を忘れられる可能性がある。

また、訓練により、日常は楽しめるようになるのだ。

…正直、まだ筆者の見解を十分に咀嚼できた気はしないが、一応得心がいったので、これで書評を終える。

感想/書評情報

記録者:DK

記録日:2023年8月9日

読了日:2023年8月7日

「X」における感想

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